朝起きれない理系院生女子の日記

朝起きれない・活字読めない・数字は読める院生女子が活字を読めるようになるためにがんばる雑多ブログ

知らない街で『劇場』を見てきた

 最初の投稿で私は小説を読めないと書いた。あれは嘘だった。読んでいた。

 又吉直樹氏の小説『劇場』だ。

 

 今から三年半前、NHKでドラマ『火花』が放送された。林遣都さん主役のドラマ版『火花』は深夜11時の放送で、その夜の静けさに溶け込むようなローテンションな作風だった。抑えられた抑揚と単調なテンポで進んでいく彼らの物語は、気が付けば自分のすぐ目の前で繰り広げられていた。テレビが目の前にあるから?そういうわけじゃない。お笑い芸人でいようと必死にもがく、徳永と神谷という人物達のドキュメンタリーを見ているような気分になった。そして9話で引くほど泣いた。又吉すごい。ほんとにすごい。全ての賞よ、又吉の下に飛んでゆけ。

 そう思って衝動的に買いに行った小説『火花』は、三ページ目あたりに栞を挟んだままずっと本棚に眠っている。

 

 それから程なく『劇場』が発売された。どうせ私は本が読めないから買っても意味が無い。そう思っていると、ある日私の好きなエッセイスト(エッセイ程の文量なら読める日もある)が『劇場』の感想をSNSにあげていた。何と書いてあったかは全く覚えていないけれど、私はその感想を見て、何故か読める気がしてきたのだ。

 そして『劇場』を通販で購入し、手元に届くと箱をビリビリにしながら開封した。そしてそのハードカバーを手に取ると、私はまずこう思った。

 

「分厚い……!」

 

 『火花』が薄かっただけに『劇場』がとても厚く感じたのだ。ページ数約200ページで分厚いと嘆く私もどうかと思うが、その頃の私にとってはもうどうしようもないほど分厚かった。

 しかし、1300円はそんな安いものではない。当時学部生だった私はそこまで金銭的に余裕があったわけではないので(じゃあ買うなという話だけど)買ったからには絶対に読み切らねば、という一心で私はハードカバーを開いた。

 

 しかし、そこからの数ページが長かった。主人公永田は、東京の街をふらふらと歩く。その様がずっと描かれているのだ。

 その壁を越えるのに一週間かかった。一週間後、やっと台詞に辿り着く。そこからは二日で読めた。

 

 そういうわけで、前置きに800文字も使ってしまったが私は『劇場』という小説を読了することが出来たのだ。

 そしてやっと本題だ。映画『劇場』が公開された。

 小説をよく読む人にはわからないだろうが、少なくともここ5,6年で私はたった一冊の小説しか読了していない。そのため、私にとって『劇場』という作品は非常に特別だった。

 だから、『劇場』は劇場でみなくては!

 そう思って上映している劇場を調べるも、なんてこった、いつも行く大きめの映画館で上映していないのだ。それだけじゃない。近所の映画館全てを調べてもやっていなかった。コロナめ……お前だけは絶対許さない…!そう思って空中を睨んでいると、かなり遠くの街で上映している映画館があるのをSNSで知った。

 行ったことのない街だった。いつも乗らない電車に乗り、見たこともない駅で降りた。少し古びた町並みで、やんちゃそうなお兄ちゃんたちが映画館の前のロータリー的なところで煙草をすぱすぱ吸っていた。

 そして一人で映画館に入り、チケットを買っておまけのメッセージカード的なものをもらった。40分前には着いていたのに、待合室には同じメッセージカード的なものを持っている人が既に数人いた。みんな一人で『劇場』を見る為だけにこの街に来たのだろう。そう思うと、なんとなくみんな仲間な気がしてきた。こんにちは!どこから来たの!?小説読んだ?どうだった!?待合室にいる人全員にそう聞きたかったけど、静かに40分経つのを待った。

 上映時間になり、小さなシアターに入った。人はそこそこ入っていて、ほとんどが一人で見に来ていた。今まで行った映画館の中で、一番小さな映画館だったと思う。スクリーンも小さくて、シートが赤くてふわふわだった。だから私はなんとなく、映画館ぽくない映画館だなあ、と思った。映画館じゃないんだったら何っぽいんだよ、と思うけど、映画のラストを見ていないその時の私には、まだ分からなかった。

 

 開幕し、私は冒頭の挫折を思い出した。永田が長々と東京の街を歩く。私は歩ききるのに一週間かかった。けれど山﨑賢人扮する永田は、ものの数分で歩ききった。

 そうか、こんなにもこの描写は短かったのか。そう思ったけど、たぶん違う。私にとって8ページに及ぶフラフラが長かったのと同じように、永田にとってもあのフラフラはきっと長かったはずだ。少なくとも数分で終えて良いようなフラフラではなかった。追い越すことのできない肉体にただ引き摺られる時間なんて、それがたった数分の出来事だとしても、本人にとってはその何倍もの時間に感じるだろう。だから8ページも描かれたわけだし、だから一週間もかかったわけだ。

 そして、フラフラの後に物語は進んでいく。私はその物語が妙に新鮮に感じた。考えてみると、私は本を読めないだけでなく、記憶力もゴミくずレベルで無いのだ。

 そんな私が『劇場』という小説で辛うじて覚えている事と言えば、冒頭のフラフラ、結末、青山といううざい女、そして、沙希という、気持ち悪い女。

 主人公永田の恋人である沙希という女は、永田に自分の家を「ここが一番安全」と言う。そして、永田をべったべたに甘やかした。甘いと優しいは似て大きく非なるもので、永田はその甘さに耽ることはあっても救われることはなかったのだろう。

 沙希という女は不可解だった。小説でも思った事を映画でも思った。沙希が気持ち悪い。こんな女現実にいるわけない、とさえ思った。彼女は、永田にとって恋人より大きいものになりたかったのかもしれない。得体の知れない何かになろうとして、戻れないところまで行ってしまったのか。私には沙希が分からなくて、けどきっと沙希の事は誰にも分からなくて、たぶん沙希にしかわからないと思う。この世で沙希の内側を理解できる人なんて、又吉直樹松岡茉優しかいないと思った。

 

 翌日、研究室で先輩と『劇場』の話をした。偶然その人も『劇場』を見たそうで、その人は「永田めっちゃ最低よな、気持ち悪い」と笑っていた。

 しかし、続けてこう言った。

「でも俺、永田の感情が手に取るようにわかってさ」

 そして、こんなこと言うと俺も最低って言われるかもだけど、と前置きすると、

「俺たぶん永田にめっちゃ似とるんやわ」

 と、先輩は笑っていた。

 

 たぶん、私にも沙希に似たところがあるのだろう。いや、私だけじゃない。こんなやついないと思った沙希は、存外現実の世界にありふれている存在で、気持ち悪くて、意味が分からない。そんなどうしようもない彼女のどこか一面に、どうしようもなかった自分自身を投影してしまうのだ。だから自分を見ているようで”気持ち悪くて”、いつかの自分のように“意味が分からない“のだ。

 

 

一番会いたい人に会いに行く。

 こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

出典:又吉直樹『劇場』

 

 帯に書かれたこのフレーズだが、小説を読んだ当時はあまり腑に落ちなかった。けれど映画を見ると、この台詞がすとんと落ちる。

 永田はたぶん、一生どこにも行けない。彼はあの舞台から出ることはできないのだろう。