『罪の声』を見てきた
あの子の声を聴きたい。それは切なる想いだった。
こんな夢のような映画があるだろうか。というわけで、公開日に映画『罪の声』を見に行ってきた。今日はその感想を書こうと思っているので、サラッとネタバレするかもしれない。
相も変わらず本が読めないため、今回も原作を読まずに参戦した。出演者を見れば、星野源から始まり松重豊、市川実日子、橋本じゅんと、まさにアンナチュラル・MIU404のオールスターチームのような布陣で、尚且つ監督の土井裕泰さんは『逃げ恥』や『空飛ぶ広報室』、『重版出来!』で脚本の野木亜紀子さんとタッグを組んでいる。まさに野木亜紀子ファンには堪らない、ご褒美のような一作だ。
物語は実話をモチーフに作られている。昭和の怪事件、『グリコ・森永事件』だ。作中では『ギンガ・萬堂事件』と名前を変え、同様に怪事件として語られている。
犯行グループは当時の大手お菓子メーカー・ギンガ社の社長を誘拐し、それが失敗に終わると子供向けお菓子へ青酸ソーダを混入させた。つまり、お菓子を食べる子供達全員を人質に取ったのだ。そして、子供や女性の声を使って犯行予告を行い、様々なお菓子メーカーに多額の身代金を要求した。警察と犯行グループの攻防は幾度に渡り、マスコミは両者の動向を追い続けた。そして捜査の末ようやく掴んだ“キツネ目の男”という情報は結局生かされることなく、一連の犯行は謎ばかり残したまま終局する。犯行グループが多額の身代金を要求しておきながら一銭も入手していないことも怪事件たらしめる所以の一つであり、様々な憶測を呼んだが、事件は昭和の時代の終わりと共に時効を迎えた。事件を追い続けた警察とマスコミにとって、拭うことの出来ない汚点となったのだった。
物語の主役の一人であるテーラー・曽根(星野源)は、ある日自宅で一本のカセットテープを見つけた。家族との些細で幸せな時を過ごす曽根の日常は、そのカセットテープにより瓦解する。曽根の声が“罪の声”、要するに、30年以上前の怪事件・ギン萬事件の犯行予告に使われた、子供の声だったのだ。
時を同じくして、大日新聞社の文化部で働く阿久津(小栗旬)は、昭和最大の未解決事件・ギン萬事件を調べ直す社会部の企画に、助っ人として参加することになった。以前は社会部でスクープを抜いていた阿久津は、持ち前の取材力で真相を追っていく。そして阿久津が聞き込みに行ったとある料理屋で、独自に事件を追っている曽根という男の存在を知るのだった。
と、いう感じの映画だった。この後阿久津が曽根を訪ね、なんやかんやあって情報共有し、なんやかんやあって有力な手掛かりを入手し、なんやかんやあって事件の真相に辿り着く。いや、辿り着いてしまう。
そのなんやかんやには一切の無駄がなく、重厚感と緊迫感とそれから少しの混乱とが綯交ぜになっており、正直鑑賞後はすっごく疲れた。同行者と顔を見合わせ、何も言わずにうなずくほどであった。
感想としては、憎しみとは随分身勝手な感情なのだなあ、と思った。フッと沸き立ってフッと消え、目の前に自分が壊したものが転がっていたとしても、謎の正当性が生まれる。憎んでいた、復讐したかった、そんな感情達が物事の正統を崩し、整合を崩し、それでも正しいことをしたんだよと耳元で嘯く。それが子供たちの未来を穢しているとしても。
今流行りの五条悟は0巻でこんなことを言っていた。
若人から青春をとりあげるなんて許されないんだよ
何人たりともね
芥見下々『呪術廻戦0巻』
たとえそれが、自分の肉親だとしても。
『コンフィデンスマンJP プリンセス編』を見た
古沢良太脚本『コンフィデンスマンJP』の劇序盤第二弾、『コンフィデンスマンJP プリンセス編』をようやく見ることが出来た。
というのも、私はこの映画が公開されてから、2回ほど映画館に行ったのだが、どちらも満席で見ることが叶わなかったのだ。こんなに見たいのに…コンフィは私のことが嫌いなの……?とメンヘラじみたことを思ったが、席を予約してから行けば良い話。漸く鑑賞することが出来たので、その感想を記しておく。
今作も最後の大どんでん返しは痛快の極みであったが、まず語るべきは今作のヒロインでありプリンセス、関水渚さんのことだろう。
まず、かわいい!!!!!!!!!!!
コックリと呼ばれ、周りを取り囲む大人の言葉にただ頷くしか出来なかった彼女が、ダー子と共に巨万の富を手に入れるためにプリンセスへと変貌を遂げる。学校もまともに行っていなかった彼女が言葉を知り、教養を身につけ、プリンセスにふさわしい素養を手にしてく。平凡な女の子がプリンセスに変身するなんて様はよくあるシンデレラストーリーに聞こえるけど、四ヶ月に渡る特訓は、彼女を一夜限りのプリンセスではなく本物のプリンセスへと変身させた。
何にもなれなかった彼女が、何にでもなれた。それでも自分は偽物だと思っていた彼女に本物だと告げたのは彼女の母親であり、そして彼女の言葉によってダー子もまた本物の母親になった。
プリンセスは素敵なプリンスに助けられて幸せになるものだとディズニー映画から学んだが、今作にはプリンスなんて現れていない。彼女は彼女の努力でプリンセスになり、彼女の力で幸せになった。だからこそ、彼女以上に優秀なプリンセスは現れないとダー子は断言できたのだろう。
かわいくて、勇敢で、優しくて、強い。
生まれながらのどのプリンセスより、彼女はずっとプリンセスだった。
そして、号泣しつつ大満足で迎えたエンドロール。私は不覚にもあのエンドロールで一番泣いてしまった。
天才恋愛詐欺師・ジェシー。彼は前作のラストで見せたへたれっぷりを引き継ぎ、かっこいいようなダサいような出で立ちでセレブの集うパーティーをに漁りにやって来る。そして大どんでん返しの片棒を担がされる彼だが、映画のエンドロールではいきいきとした笑みを浮かべる彼の写真が映し出された。その途端、涙が濁流のように溢れてきた。
ジェシーはきっと今後もコンフィデンスマンの世界で生き続ける。続編として予定されている『英雄編』でも、きっとジェシーは恋愛詐欺師として世の女性をだまし続けるのだと思う。けれど、ジェシーを演じる彼はもうこの世界にはいなくて、新たに作り出される世界にも絶対に彼の姿を見つけることができない。
訃報からおよそ一ヶ月。ファンと名乗るには烏滸がましいと思い、一線を引いて悼んできた。ファンでもない私が悲しいと泣いて良いのだろうか、なんて思って一ヶ月が過ぎたが、涙を流すことができてふと気づいた。私めっちゃ三浦春馬好きだな。
きっと古沢良太脚本のことだから、ジェシーという名前は続編でも残るだろう。そして、続編もなかなかチケットを買えないぐらい人気作になるのだろうけど、私はジェシーがかっこよくて絶妙にダサいダンスを踊る今作が、たぶんずっと一番好きだ。
知らない街で『劇場』を見てきた
最初の投稿で私は小説を読めないと書いた。あれは嘘だった。読んでいた。
又吉直樹氏の小説『劇場』だ。
今から三年半前、NHKでドラマ『火花』が放送された。林遣都さん主役のドラマ版『火花』は深夜11時の放送で、その夜の静けさに溶け込むようなローテンションな作風だった。抑えられた抑揚と単調なテンポで進んでいく彼らの物語は、気が付けば自分のすぐ目の前で繰り広げられていた。テレビが目の前にあるから?そういうわけじゃない。お笑い芸人でいようと必死にもがく、徳永と神谷という人物達のドキュメンタリーを見ているような気分になった。そして9話で引くほど泣いた。又吉すごい。ほんとにすごい。全ての賞よ、又吉の下に飛んでゆけ。
そう思って衝動的に買いに行った小説『火花』は、三ページ目あたりに栞を挟んだままずっと本棚に眠っている。
それから程なく『劇場』が発売された。どうせ私は本が読めないから買っても意味が無い。そう思っていると、ある日私の好きなエッセイスト(エッセイ程の文量なら読める日もある)が『劇場』の感想をSNSにあげていた。何と書いてあったかは全く覚えていないけれど、私はその感想を見て、何故か読める気がしてきたのだ。
そして『劇場』を通販で購入し、手元に届くと箱をビリビリにしながら開封した。そしてそのハードカバーを手に取ると、私はまずこう思った。
「分厚い……!」
『火花』が薄かっただけに『劇場』がとても厚く感じたのだ。ページ数約200ページで分厚いと嘆く私もどうかと思うが、その頃の私にとってはもうどうしようもないほど分厚かった。
しかし、1300円はそんな安いものではない。当時学部生だった私はそこまで金銭的に余裕があったわけではないので(じゃあ買うなという話だけど)買ったからには絶対に読み切らねば、という一心で私はハードカバーを開いた。
しかし、そこからの数ページが長かった。主人公永田は、東京の街をふらふらと歩く。その様がずっと描かれているのだ。
その壁を越えるのに一週間かかった。一週間後、やっと台詞に辿り着く。そこからは二日で読めた。
そういうわけで、前置きに800文字も使ってしまったが私は『劇場』という小説を読了することが出来たのだ。
そしてやっと本題だ。映画『劇場』が公開された。
小説をよく読む人にはわからないだろうが、少なくともここ5,6年で私はたった一冊の小説しか読了していない。そのため、私にとって『劇場』という作品は非常に特別だった。
だから、『劇場』は劇場でみなくては!
そう思って上映している劇場を調べるも、なんてこった、いつも行く大きめの映画館で上映していないのだ。それだけじゃない。近所の映画館全てを調べてもやっていなかった。コロナめ……お前だけは絶対許さない…!そう思って空中を睨んでいると、かなり遠くの街で上映している映画館があるのをSNSで知った。
行ったことのない街だった。いつも乗らない電車に乗り、見たこともない駅で降りた。少し古びた町並みで、やんちゃそうなお兄ちゃんたちが映画館の前のロータリー的なところで煙草をすぱすぱ吸っていた。
そして一人で映画館に入り、チケットを買っておまけのメッセージカード的なものをもらった。40分前には着いていたのに、待合室には同じメッセージカード的なものを持っている人が既に数人いた。みんな一人で『劇場』を見る為だけにこの街に来たのだろう。そう思うと、なんとなくみんな仲間な気がしてきた。こんにちは!どこから来たの!?小説読んだ?どうだった!?待合室にいる人全員にそう聞きたかったけど、静かに40分経つのを待った。
上映時間になり、小さなシアターに入った。人はそこそこ入っていて、ほとんどが一人で見に来ていた。今まで行った映画館の中で、一番小さな映画館だったと思う。スクリーンも小さくて、シートが赤くてふわふわだった。だから私はなんとなく、映画館ぽくない映画館だなあ、と思った。映画館じゃないんだったら何っぽいんだよ、と思うけど、映画のラストを見ていないその時の私には、まだ分からなかった。
開幕し、私は冒頭の挫折を思い出した。永田が長々と東京の街を歩く。私は歩ききるのに一週間かかった。けれど山﨑賢人扮する永田は、ものの数分で歩ききった。
そうか、こんなにもこの描写は短かったのか。そう思ったけど、たぶん違う。私にとって8ページに及ぶフラフラが長かったのと同じように、永田にとってもあのフラフラはきっと長かったはずだ。少なくとも数分で終えて良いようなフラフラではなかった。追い越すことのできない肉体にただ引き摺られる時間なんて、それがたった数分の出来事だとしても、本人にとってはその何倍もの時間に感じるだろう。だから8ページも描かれたわけだし、だから一週間もかかったわけだ。
そして、フラフラの後に物語は進んでいく。私はその物語が妙に新鮮に感じた。考えてみると、私は本を読めないだけでなく、記憶力もゴミくずレベルで無いのだ。
そんな私が『劇場』という小説で辛うじて覚えている事と言えば、冒頭のフラフラ、結末、青山といううざい女、そして、沙希という、気持ち悪い女。
主人公永田の恋人である沙希という女は、永田に自分の家を「ここが一番安全」と言う。そして、永田をべったべたに甘やかした。甘いと優しいは似て大きく非なるもので、永田はその甘さに耽ることはあっても救われることはなかったのだろう。
沙希という女は不可解だった。小説でも思った事を映画でも思った。沙希が気持ち悪い。こんな女現実にいるわけない、とさえ思った。彼女は、永田にとって恋人より大きいものになりたかったのかもしれない。得体の知れない何かになろうとして、戻れないところまで行ってしまったのか。私には沙希が分からなくて、けどきっと沙希の事は誰にも分からなくて、たぶん沙希にしかわからないと思う。この世で沙希の内側を理解できる人なんて、又吉直樹か松岡茉優しかいないと思った。
翌日、研究室で先輩と『劇場』の話をした。偶然その人も『劇場』を見たそうで、その人は「永田めっちゃ最低よな、気持ち悪い」と笑っていた。
しかし、続けてこう言った。
「でも俺、永田の感情が手に取るようにわかってさ」
そして、こんなこと言うと俺も最低って言われるかもだけど、と前置きすると、
「俺たぶん永田にめっちゃ似とるんやわ」
と、先輩は笑っていた。
たぶん、私にも沙希に似たところがあるのだろう。いや、私だけじゃない。こんなやついないと思った沙希は、存外現実の世界にありふれている存在で、気持ち悪くて、意味が分からない。そんなどうしようもない彼女のどこか一面に、どうしようもなかった自分自身を投影してしまうのだ。だから自分を見ているようで”気持ち悪くて”、いつかの自分のように“意味が分からない“のだ。
一番会いたい人に会いに行く。
こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。
出典:又吉直樹『劇場』
帯に書かれたこのフレーズだが、小説を読んだ当時はあまり腑に落ちなかった。けれど映画を見ると、この台詞がすとんと落ちる。
永田はたぶん、一生どこにも行けない。彼はあの舞台から出ることはできないのだろう。
活字を読めない理系院生女子がブログを始めた
ブログを始めた。
私は昔、文章を書くのがとにかく好きだった。
アニメや漫画、小説が好きな兄に影響され、あの太っいハリーポッターを手に取ったのが小学生のころ。そのころの私はハリーポッターの世界にすっかり心酔してしまっていて、よくハリーポッターの夢を見たものだ(夢の中でちゃんと呪文を唱えたけど、魔法を使えたためしはない。夢なのに。夢の中なのだから夢ぐらい見てもいいじゃないかと思う)。
そこからなぜ私が文章を書くのが好きになったのかは覚えていない。けどとにかく文章を書くのが好きだった。なのでたくさん書いた。ファンタジーから推理ものから、とにかく様々なジャンルの文章をそこそこの文字数書いた。恋愛ものを書かなかったのは、中学生特有の謎の恥ずかしさがあったからか、単に私が中二病の最中で中二チックなものしか興味がなかったからかもしれない。けど、とにかくたくさん書いた。己の少ない語彙力と稚拙な作文能力を理解しながらも、精一杯書いた。それを誰に見せるでもない。当時の私は、自分で書いたものを自分で読み返し、自分の頭の中にあった物語が文字となってディスプレイの液晶に浮かんでいることに只々歓喜していた。
そんなとき、一つの出会いがあった。それは私の短い人生の中でも、とても、…いや、まあまあ、……まあ、それなりに大きな出会いであった。
いわずと知れた速筆の文豪、西尾維新先生との出会いだった。図書館で高校受験の勉強をしていた私は、偶然西尾維新先生の本と出会ってしまったのである。西尾維新先生がどのような本を書かれているかは特筆しないけれど、中学生の私にとっては世界がひっくり返るような出会いだった。そこから私は文章を書くのをやめた。自分が拙文と承知の上で書いていた文章が、どれほど悲惨なものかを知ってしまったからである。
だから、私は文章を書くのが好きだった。これは過去形だ。正直今も好きなほうだけど、昔みたいに物語を書くこともないし、なんなら読むこともしなくなった。気が付いたら活字が苦手になっていたのだ。
その代わりに、私はドラマや映画、アニメなどの映像メディアを好むようになった。わざわざ文字を目で追わなくても、演者さんがセリフを読んでくれる。状況を脳内に思い浮かべなくても、演出家さんや監督さんがその景色を見せてくれる。
すごく楽。そして面白い!最高!!
私の興味は文字からスクリーンへと移ってしまった。そしていよいよ活字が読めなくなった。
昔、よく母が「私数字も活字も読めない~」と笑っていたのを当時の私は嘲笑していた。もう笑えない。全然笑えない。私も活字が読めないのだ。辛うじて数字は読めるけど、活字は読めない。文章を読むことが面白いと知っているのに、その面白さを味わう過程でどうのこうのの前に、まずスタートラインに立てない。そもそも本を開かないし、手に取らない。
実はこの春、私は来る自粛生活のために古本屋でビジネス本を2冊買った。絵が多めの本で、内容的にも興味があったからこれなら私も読んでくれるだろう。そう思って買ったのにその期待は呆気なく裏切られた。4か月たった今、まだその本を一行も読んでいない。というか開いてない。ていうかその本どこ行ったんだろう知らないなあ。
そういうわけで、私はブログを始めた。
読むより書くほうが続きそうな気がしたからだ。パッシブな学習よりアクティブな学習のほうが良いと聞いたことがある気がするし。うん、そんな気がする。なのでまずは書くことから。
とくに何を書くとは決めていないけれど、好きなドラマ・映画や、研究生活で思ったことやらなんやら、とにかく文章を書くという行為に体を慣らさせたい。文字とオトモダチになりたい。まずは友達から。嫌なら知り合いからでもいいので、少しでいいからお近づきになりたい。文字と。
そしていつか、私がまた活字を読めるようになったら、まずは人類最強の続編を読もうと思う。そのころには私もたぶん最強になってる。たぶん。たぶんね。めちゃくちゃ戯言だけど。